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東京高等裁判所 昭和29年(ネ)1494号 判決

控訴人(被告) 国

訴訟代理人 岡本拓 外一名

被控訴人(被告) 細田周治

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人国指定代理人は「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し金二十七万七千円及びこれに対する昭和二十六年十二月十三日以降完済まで年五分の金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。」との判決を定め、被控訴人訴訟代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述は、控訴人指定代理人において「(一)第一審では、昭和二十四年五月一日以降同二十五年三月末日までの間本件売買建物内の坂本直吉外九名が占拠していた十室に対する相当賃料額(一室につき一ケ月金三百円宛)のうち、金二万三千円をも結局売主たる被控訴人の明渡義務不履行に因る損害の賠償として訴求していたが、この部分の請求を取下げ請求の趣旨を前掲の如く減縮する。(二)一般に国が契約する場合には、支出負担行為担当官(各省各庁の長からその事務の委任を受けた職員、契約の面ではこれを契約担当官という)において、これをするのが法規のたて前であるが(会計法第十三条、予算決算及び会計令第六十八条)、支出負担行為担当官が所部の職員をして事実上の下交渉等をなさしめることは、別に禁止されているものでなく、現実の諸官庁における取扱は、契約の具体的内容の取極めはすべてこの下交渉において行われ、支出負担行為担当官は、下交渉の結果作成された契約に、形式的に印を押捺するのみというのが実状である。本件において被控訴人と折衝に当つた本多茂雄は逓信省航空保安部厚生係長であつて、支出負担行為担当官でないが、支出負担行為担当官である航空保安部長の命を受け、被控訴人と本件アパートの買収について下交渉をなし、交渉の経過をその都度報告し指示を受けて処理に当つていた。そして昭和二十四年三月二日航空保安部長は支出負担行為担当官(契約担当官)として、本多係長の下交渉の結果に基ずき被控訴人との間に本件契約を締結したものである。(三)本件アパートの売買価格は、居住者のない建物として取引され、且つ客観的にも空家として時価相当額であるから、この点からみても、居住者に対する立退料を、被控訴人において負担する旨の契約の存在を窺われよう。元来本件契約に関する交渉の過程において、既にアパート内には居住者のいることは明らかにされていたのであるが、控訴人側において特にそれを理由に減額を申入れた事実もなく、これら居住者を容易に退去せしめ得るとの被控訴人の言を信じ、その居住者の数及び占有権原の有無等について別段の調査を行うこともなく、価格が決定されたものである。(四)控訴人が訴外坂本直吉外九名に支払つた立退料計金二十七万七千円の内訳支払日時等は別表〈省略〉記載のとおりである。(五)控訴人が本件アパートの居住者に支払つた立退料相当額を被控訴人に対し損害の賠償として請求する根拠は、(イ)本件売買契約締結に当つて被控訴人は控訴人に対し、該アパート居住者等を昭和二十四年四月三十日までに悉く立退かせ、控訴人をして完全にこれを使用せしめることを約し、右立退につき立退料等の費用を要するときは、被控訴人においてこれを負担すべく、またもし控訴人においてこれ等費用を支出したときは、被控訴人がこれを賠償すべき旨を特約したのであるから、第一次にはこの特約を原因とし、(ロ)仮りにかかる賠償契約の存在が認められないとしても、少くとも被控訴人は控訴人に対して、本件アパートの居住者等を昭和二十四年四月三十日までに立退かせ、控訴人をして完全に該アパートを使用せしむべき旨を約したのであるから、被控訴人がこの義務を履行せず、そのため控訴人において前記立退料の支出を余儀なくせられた以上右は被控訴人の債務不履行により控訴人の蒙つた通常生ずべき損害として、仮りに特別の事情により生じた損害であるとしても、当事者がその事情を予見しまたは予見し得べかりしものであるから、いずれにしても被控訴人においてこれが賠償の責に任ずべきものであると主張する。」と述べ、被控訴人訴訟代理人において「一、控訴人の請求の一部取下と請求の減縮については異議がない。二、本件アパートの売買契約締結に当り、本多茂雄が控訴人国の支出負担行為担当官たる航空保安部長の命により、その所部の職員として売買の下交渉に当つたことは認める。三、本件アパートの売買価格は客観的にも空家としての時価相当額であるとの控訴人主張事実は、これを否認する。本件売買契約締結前航空保安部の職員は、何回となく同アパートを実地調査し、十世帯の居住者の現住事実を確認し、右居住者のあるままの状態で売買値段を取極め引渡を了したものであつて、ただ現居住者と立退の交渉をするについては、被控訴人もこれに協力すべきことを被控訴人に約したことがあるに過ぎない。四、控訴人側から本件アパートの居住者十名を相手方として調停の申立をしたことは認めるが、控訴人主張のような内容の調停が成立したことは知らない。原判決事実摘示中、被控訴人の事実認否として調停の成立したことは認めるとある部分を右の如く訂正する。」と述べた外は、原判決事実摘示と同一であるから、これをここに引用する。

〈立証省略〉

理由

昭和二十四年三月二日控訴人国が被控訴人から、その所有にかかる東京都中野区氷川町一番地所在木造瓦葺二階建アパート一棟建坪八十八坪一合二勺二階八十七坪(室数三十六)を代金二百四十万円で買受ける契約をし、同月五日に代金を支払い所有権移転登記を経由し、当時右アパートに居住していた坂本直吉外九世帯が一世帯毎に一室宛計十室に占拠したままでその引渡を受けることは、当事者間に争がない。

よつて右売買契約の締結と関連して、前示残留の十世帯を退去せしめることに関し、控訴人主張のような内容の賠償契約が成立したがどうかの点につき審究するに、右売買の下交渉については、訴外本多茂雄が控訴人国の支出負担行為担当官(契約担当官)である逓信省航空保安部長の命を受け、所部の職員として(即ち控訴人国の契約担当官の意思伝達機関)被控訴人との間に、折衝の任に当つたものであることは当事者間に争なく原審及び当審における右本多茂雄の証言によれば、前記控訴人主張事実に副う供述があり、成立に争のない甲第一号証の六によれば、被控訴人は前示契約担当官である航空保安部長宛に、前示アパートの売渡に関し昭和二十四年四月三十日までに別記居住者全部の立退を被控訴人の責任において完了させ、この件については控訴人は勿論、別記各居住者からも航空保安部へ何等の負担をもかけさせない旨を記載し、且つ別記として居住者中六名の氏名を記入した誓約書を差入れてある事実は、これを認め得るが、飜つてこれら証拠と、成立に争のない甲第四号証原審証人牧野美坂子、同細田ゑい、同坂本直吉、原審(第一、二回)及び当審における被控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合するときは、被控訴人は本件売買以前に本件アパートを自己経営の病院兼住宅に使用したいと思い、居住者を階下の一隅に移転せしめると共に、その数名からは立退の誓約書を差入れさせていたところ、資金の都合上これを売却することとなり、他にも本件売買価格よりも高価で買受の話はあつたが、代金の入手も確実で契約締結後直ぐ代金を支払つて貰えるというので、控訴人(逓信省航空保安部)との間に売買が成立したことの経緯、控訴人側でも本件売買の下交渉の過程において実地に検分し、該アパートの一部に居住者の残留して居た事実を知つていたものの、受渡を急ぐ都合もあつたので特に右居住者について調査もせず、一部に右残留者が居住するままでその引渡を受けることとなつたが、売買契約成立し代金の授受する際(同年三月五日頃)になつて、急遽前顕甲第一号証の六の誓約書中、居住者を立退かせる期限である「四月三十日」作成日附「三月一日」及び裏面の別記とある部分のみを空白とした誓約書を被控訴人に示し、右空白の部分の記入を求めたので、被控訴人もその内容をよく検討する暇もなく、居住者についてはうろ覚えの氏名六名だけを記入した位で、右誓約書を補充完成の上交付したが、その際の被控訴人の気持としては前示の如く、居住者の数名からは既に立退の誓約書をとつている位であり、売買交渉の経過も前示のとおりである関係上、現居住者の全員の立退につき立退料金等の費用を要するときは、自己においてこれを負担すべく、またもし控訴人においてこれら費用を支出したときは、その額如何に拘らず、被控訴人においてこれを賠償するというようなことは、少しも予想せず、ただ現居住者を立退かせることについては、被控訴人に負担を生じないよう能う限りの尽力をすることを誓約した程度と認めるのが相当であつて、(若し控訴人主張のような厳格な賠償契約であるとすれば契約締結の衝に当つた係員の良識としてその趣旨を明確にした書面を作成して置いたであろうし、或は代金の一部を賠償にあてるため支払を保留して置く等、適切な措置を講じて置くのが普通であると考えるのが至当である。)前顕本多茂雄の証言中右認定に反する部分は採用し難く、甲第一号証の六の記載も右の趣旨において理解すべく、その他控訴人の提出援用にかかる全証拠を以てするも、到底控訴人主張のような内容の賠償に関する特約の存在を、肯認するに足らない。

次に控訴人は、かかる賠償の特約が成立していなかつたとしても、被控訴人は昭和三十年四月三十日までに現居住者全員を立退かせ、控訴人をして完全に該アパートを使用せしむべき旨を約したのであるから、この義務不履行のため、控訴人が支出を余儀なくせられたその主張の如き立退料計二十七万七千円は、通常生ずべき損害として、仮りに特別の事情により生じた損害であるとしても、当事者が予見しまたは予見し得べかりしものであるから、被控訴人においてこれが賠償の責ある旨主張するので按ずるに、本件売買においては現居住者十世帯の残留したままで、代金の支払、所有権移転登記並びにその引渡をしたこと前認定のとおりであるが、仮りに被控訴人の責任において、前示建物中十室に居住する十世帯を退去せしめ、この占有居室十室を被控訴人に引渡す義務を負担する約旨であつたとしてもかかる債務不履行に因り通常生ずべき損害としては、右未引渡部分に対する賃料相当額の程度において賠償を請求し得るに止るものと解すべく、(しかもこの部分についてはその一部を請求していたが、控訴人は当審においてこれを取下げた)、控訴人主張のような残留居住者に対し、調停成立の結果支払を余儀なくせられた立退料支出に因る損害の如きは、特別の事情に因り生じたものと認めるの外なきところ、かかる特別の事情については、契約当時当事者が予想していなかつたことは、前認定に照らし明らかであると共に、叙上認定の諸般の事実に徴するも当時において当事者がかかる事情を予見し得べかりしものであつたと断ずることもできかねる。

以上説示のとおりであるから、損害の額その他爾余の争点につき判断を加うるまでもなく、前示賠償に関する特約の存在を前提とし、または一般債務不履行に因る損害として、これが賠償を求める控訴人の本訴請求は、失当として棄却を免れず、結局右と同趣旨に出でた原判決は相当であるから、民事訴訟法第三百八十四条に則り本件控訴を棄却すべく、控訴費用の負担につき同法第八十九条第九十五条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 斎藤直一 菅野次郎 坂本謁夫)

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